Re:STYLING MONO #15 ビクトリノックスが生み出した世界一コンパクトな道具箱

#15 ビクトリノックス


人類が最初に手にした道具はおそらくナイフである。石の切片か割れた動物の骨で切ったり裂いたりすることが容易になって、初めて道具を使うことを覚えたのである。それはまさに覚醒だったに違いない。以降、ナイフはずっとブレード(刃)とハンドル(持ち手)というスタイルで発展を続けていった。包丁にしろ剣にしろ、形やデザインは用途によってさまざまなものが生まれたがブレードとハンドルという基本形は何千年もそのままであった。ところが1891年、カール・エルズナーというスイス人が自国の軍隊のために開発したソルジャーナイフはハンドルに刃物以外の機能も盛り込んだ高い機能性と携帯性に長けた多徳ナイフであった。有史以前から続いていたナイフのデザインが一つ上の次元へと飛躍した瞬間である。

1891年に製品化されたスイス・ソルジャーナイフ。現存するすべてのアーミーナイフの原点となったデザインはそれまでの刃物の進化と同様に1000年単位で変わることはないだろう。それほど完成されたデザインだった。

ナイフに“切る”以外の機能がもたらされた日


 旅に携行するアイテムの中で欠かせないのがビクトリノックスの『トラベラー』だ。カバンやトランクの中にそっと忍ばせておくと、本当に役に立つツールとなる。たとえば堅い包装のパッケージを開封するのに小さな刃物は役に立つし、ネジが外れた旅行カバンや携行品の修理にドライバー部分が役に立つ。

意外に多いのが海外のスーパーで買ったビンのビールやドリンクが、いまだに栓抜きを必要とするタイプである場合。そんなとき、トラベラーのせん抜きには本当に有り難味を実感する。ビクトリノックスに内包されるツールの中で、発売以来ずっと評価が高いのがハサミ。この小さなハサミは利き手を選ばず機能する。

試しにこのハサミで爪を切ってみるといい。右利きでも左利きでも関係なく快適な切れ味を実感できるはずだ。他にもベルトの穴を調整するのに便利なリーマーや、いろんなものを引っ掛けるマルチフック、大小のマイナスドライバーにピンセットやツースピックなど、多種多様な機能がこの小さなボディに集約されている。キーリングのホルダーに加えて日常的に装備しておくと、オフィスなどのデスクまわりでも意外に機能する場面が多かったりもする。同社のマルチツールナイフには他にも多くのタイプが用意されているが、バランス的にはこのトラベラーの評価が高い。

この美しいフォルムと完成された機能バランスが、19世紀に末には完成しており、しかも特許を取得していたとは、本当に驚きである。まさにスイスが生んだ名品。

【ビクトリノックス・トラベラーに内蔵される機能】

縦91×横26×厚さ33㎜の中に収められた世界一コンパクトな道具箱


 ビクトリノックスの創業は1884年。カール・エルズナーと彼の母親であるビクトリアが、スイスのシュビッツ州イーバッハにワークショップを開設したのが始まりだ。カールは帽子職人の息子であったが、刃物産業が盛んだったドイツとフランスでナイフ作りの技術を学び、スイスで工房を開いたのである。ゾーリンゲンに代表されるドイツの刃物工業と、ソムリエナイフなどを生み出したフランスの洗練された技術を吸収したカールは1891年にスイスで刃物のギルドを組織する。

ドイツ、スイス、イタリア、オーストリアという大国に国境を面する小国スイスで、この時代に刃物のギルドを組織したということは、同国の国策としても非常に大きな意味を持っていたに違いない。事実、その年にカール・エルズナーが開発した「ソルジャーナイフ」はスイス軍に納入され、制式採用の軍装備品となったわけであるから。その後、2枚の背バネに6つのツールからなる「オフィサーナイフ」を発明。1897年に特許登録がなされた。
 たとえば日本における古くからの刃物のように、砂鉄から鍛造を重ねる製法ではなく、ビクトリノックスはその創業からまもなく画期的な素材と出会う。それが世界的なステンレススチールの開発と実用化である。1921年のことだ。そのステンレススチールの国際的な名称は「inoxydable」(通称INOX/イノックス)で、カール・エルズナーは1909年に他界した母親のクリスチャンネーム「ビクトリア」をブランド名として使用していたが、その記念すべきステンレスの名称と組み合わせて『Victorinox/ビクトリノックス』と会社名を改める。

 驚くべきはこのスイス・ソルジャーナイフが最初から完成されたデザインを持っており、その基本形が21世紀のいまもほとんど変わっていないという点。当時のヨーロッパ各国のデザイン潮流をみてみると、たとえば同社の創業当時はイギリスのアーツアンドクラフツ運動の終盤期にかかっており、フランスでは1900年のパリ博覧会でアールヌーヴォーが大きなムーブメントを生んでいた。ドイツのバウハウスは1919年の創立だが、そうしたヨーロッパ先進国のデザイン潮流のいずれにも大きな影響を受けていない独自の機能的デザインを、20世紀初頭には完全なスタイルとして完成していたのだ。無駄を排した極限の機能美がスイスでは19世紀末には萌芽していたことは見逃せない事実である。精緻で職人気質な時計王国スイスの産業と併せて鑑みると、この国の工業製品における美的感覚が独自のものであることが判るだろう。

 第二次世界大戦が終了した1945年には、同社の「オリジナル・スイス・アーミーナイフ」がヨーロッパ戦線から帰還するアメリカ軍によって持ち帰られ、そこから世界中へと広まっていく。単に切るためだけの刃物ではなく、その時代のさまざまな生活用品やメカニズムに対応する機能を備えていたことが、世界的製品になる最大の理由であったはず。その後、軍用品の枠を超えた生活や趣味の道具箱として、さまざまなタイプが発売されたが、機能の進化はいまも続いている。このページで紹介している「スイスチャンプ」には、何と33の機能が搭載されている。説明書も英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、中国語、日本語、アラビア語、ロシア語と9ヶ国語で表記されており、まさに世界製品。2009年には創業125周年を迎えているが、人間が道具を使い続けている限り、ビクトリノックスは永遠に機能し続けるはずだ。

 勤勉だった創業者一族の影響も大きいがやはりスイス人の妥協のない厳格なモノ作りの姿勢が品質を安定させていたのであろう。精緻さがすべての価値を上回るような時計産業がちゃんと根付くお国柄だからこそ世界に受け入れられる製品を発信できるのである。
 ビクトリノックス社は現在、刃物以外にもトラベル&ビジネス・ギア、時計事業、アパレル事業などを展開。総合ブランドとして躍進を遂げている。


世界で最も小さな道具箱と称される「スイスチャンプ」の機能は33種類。33本のツールを持って歩くことを考えれば、この製品の偉大さが判る。ルーペや魚のウロコ取り、爪やすりなどに時代の要請が反映されていることがよく見える。

スイスチャンプならではの機能を一部紹介しよう。左上から拡大ルーペ、プラスドライバーワイヤーストリッパー付きプライヤー、金属もカットできるのこぎり。その他、マイナスドライバーの径も追加されてかなり使える道具箱となっている。

本体から切り離して使用する内蔵タイプのツールも豊富。ツースピック、ピンセントなどはその他のモデルにも搭載されているがボールペンと眼鏡の緩みなどを修理する精密ドライバーはかなり使えるアイテムである。


カールの母親 ビクトリア・エルズナー
ビクトリノックス創業者 カール・エルズナー

スイス・シュビッツ州イーバッハにあるビクトリノックス本社。
スイスらしい美しい山並みに囲まれた絶景の場所に立地している。

『スイスチャンプ』
ツール数は33ファンクション。まさにビクトリノックスのフラッグシップモデル。バッファローや真珠母貝のハンドルを持つスペシャルモデルも。

『トラベラー』
ツール数は15ファンクション。トラベルに必要な機能を満載した人気モデル。

『ハントマン』
最も代表的なオフィサーナイフの中の人気モデル。のこぎりを装備するキャンパーとトラベラーを合体させた。

『スイスライト』
何と白色LEDライトが内蔵された新時代のビクトリノックス。長寿命のLEDとハサミ、マイナスドライバーなど7つのファンクションを装備。

初出:ワールドフォトプレス発行『モノ・マガジン』2011年8月16日/9月2日合併号

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土居輝彦(teruhiko doi)
  • 1982年より㈱ワールドフォトプレス社の雑誌monoマガジン編集部へ。 1984年より同誌編集長。 2004年より同社編集局長。 2017年より同誌編集ディレクター。 その間、数々の雑誌を創刊。 FM cocolo「Today’s View 大人のトレンド情報」、執筆・講演活動、大学講師、各自治体のアドバイザー、デザインコンペティション審査委員などを現在兼任中。