香港1989 路上残影

スターフェリーで香港島に渡る。船を下りた上環の急坂を登り切るとそこがキャットストリートだ。路上で店開きした時計売りの足がマンホールのフタを踏んでいる。そこにはイギリス統治時代を示すブロードアローの矢印が残っている。変わる時代と時間を潜り抜けて香港はどこへ向かうのか。

文/河村喜代子 Photo/Kesaharu IMai

都市伝説とは、「友だちの友だち」が体験した話のようなものとされる。「友」は、信じられる存在なのだから、そこにもう一回「友」が乗っかって、「友だちの友だち」になったとしても、信憑性に欠ける話になるはずはない。実際には、真実からはひどく遠ざかっているのが、都市伝説である。だからこそ、大げさな「伝説」の言葉が似合う。

香港では、かつて「一人で、試着室に入ってはいけない」という説があった。秘密の扉が開いて、連れ去られてしまう。人さらいに、どこぞの国に売り飛ばされて「永遠に出てこられなくなる」というのだ。

こんな話もある。「香港でモノを盗まれたら」どうするか。選択肢は2つ。1つは「諦める」。絶対に戻るはずがないからだ。2つ目は、「キャットストリートへ行け」である。

盗品は、翌日にはキャットストリートに並ぶ。キャットストリートは、香港島にある。スターフェリーで湾を渡り、ハーバーを出たらすぐの上環にある。地図には摩羅街もしくはLascar Rowの表記がある。急坂を登り切った通りの両側には、歴とした骨董品店が並んでいる。店前の路上に、風呂敷大の布きれ一枚を広げて、店開きする人たちがいる。売り物の正体が、ニセモノやら盗品混じりで由来が不明。まるで「鼠が引いてきた品物」のよう。客は、路上にしゃがみ込んで品を選ぶ。その格好が、鼠を捕る猫そっくり。そこで、キャットストリートと通称された。

香港は1997年7月1日に中国に返還された。その期限が間近に迫り、変化がやって来るのを肌で感じられた1989年。どこか、宙ぶらりんな感覚も残っていた。そんななかで、時を告げる機械である時計は、確かなもの、信頼できるものの代表だった。小型で軽量で換金性に優れたアイテムだった。同時に、時計はニセモノが横行する筆頭でもあった。

中国の力が強まるのは、既定路線になりつつあった。それでも一国二制度の約束に望みをかけていた。どこへ行っても、アンビギュアスな香港が顔を出す。そんななか、どこへ進んでいくのか。扉の向こう側が魔界だったり、人とモノが予想外のルートで移動する場所。「借り物の場所で、借り物の時間」を過ごしてきたなかで、したたかに鍛えられてきた香港の力は、どのような発露を見せるのか。

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