
紀伊半島の南に位置する三重県熊野市には、日本人にとって特別な存在である伊勢神宮と熊野三山という二つの聖地を結ぶ「熊野古道伊勢路」がある。江戸時代には「伊勢に七度、熊野に三度」と言われ、多くの人が一度は訪れたいと憧れた地だった。2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコ世界文化遺産に登録され、「道そのもの」が世界遺産となる例は世界的にも非常に珍しく、数えるほどしかない※。今回、monoWeb編集部は、この歴史深い熊野古道の中でも「松本峠」を中心に、その周辺に残る遺跡・文化・歴史を、2日間にわたり取材した。
※サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路/シルクロード/インカ道網/ローマ帝国の国境線/2026年1月現在
名古屋からはJR特急南紀が便利



JR名古屋駅からJR熊野市駅へ向かうなら(東京方面からの場合)、特急「南紀」が乗り換え不要で最速約3時間10分と便利。料金は6,450円〜。三重県を南下するにつれ、車窓の景色が圧倒的に美しくなるのが魅力だ。速さ・快適さ・景色の三拍子がそろっている。乗車の際は、進行方向左側の窓側席がおすすめ。
熊野古道「松本峠」をアタックする前に







三重県熊野市ならではの新鮮な食材を味わえる「花のいわや亭」
熊野市駅前で寿司店を営んでいた店主が、16年前に開いた鮮魚にこだわる一軒だ。峠を越える前に、まずはここで腹ごしらえ。熊野1食目!
熊野三山定食 速玉
熊野近海の鮮魚を使ったお造りを中心に季節の小鉢全9品は美味しすぎた。


「花のいわや亭」
花の窟神社からほど近く、店先の道路を渡ればすぐ七里御浜という抜群の立地にある。味の良さに加えてロケーションまで揃った一軒だ。
世界遺産 熊野古道「松本峠」


松本峠は、伊勢参りを終えて熊野三山へ向かう「伊勢路」における最後の峠である。この峠を越えると、参詣者は一転して平坦な七里御浜の道を歩くことになる。平安中期以降、紀伊半島南部に位置する熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への信仰が広まり、その参詣道として多くの人々がこの地を行き交った。上皇など身分の高い人々が利用した「紀伊路」に対し、三重県側を通る「伊勢路」は、江戸時代になると伊勢参りを終えた庶民が熊野三山へ向かうための参詣道として広く利用されていた。地元語り部の「西山さん」からレクチャーを受け、いよいよ松本峠へ。

松本峠を越え、目的地の鬼ヶ城まで約5.5km。所要時間は約2時間半ほどの行程だ。今回は、GPSで実際に歩いた軌跡を地図に落とし込んでみた。体感では「あっという間に走破した」という印象だったが、地図で見ると実際にはかなり広い範囲を移動していたことがわかる。松本峠の様子や風景の変化が伝わるよう、道中のポイントには番号を振って整理してみたぞ。
① 松本峠入口


巡礼者とともに峠へ入る。舗装路の端に据えられた石段を前にすると、ここから先は別の時間が始まるようだ。この先、2時間半も持ちこたえられるのだろうか。
② ここが熊野古道静かな上り



木々が音を吸い込み、足音だけが際立つ。峠道らしい “静けさの密度” が濃い。歴史ある石畳は、見る価値も歩く価値もある世界遺産だ。雨の多い紀伊地方らしく、石にはきれいな苔が生えている。
③ 熊に知らせる鈴


何気なく設置されたクマよけの鈴。ニュース映像が一瞬頭をよぎるような緊張感と、峠の静けさが同居する。年末風物詩商店街の福引きガラガラで金賞が出たときのように、思いきり鈴を振ってみた。
④ 尾根に近づく明るさ


木漏れ日が増え、視界がゆっくりと開けていく。身体がふっと軽くなるようだ。気づけば、杉林はいつの間にか竹林へと姿を変えていた。巡礼者の歩みは意外なほど速い。あの脚力は、日頃から外回りをこなす営業職に違いない。
⑤ 鉄砲地蔵



峠坂を上りきる直前、ふっと視界が開ける。そこにひっそりと佇むのが「鉄砲地蔵」だ。江戸時代、妖怪と誤解されて撃たれたという逸話をもつ地蔵で、いまも足元には弾痕が残る。その傷跡は、時を経たいまもなお深く刻まれる。
⑥ 分岐標識

松本峠、鬼ヶ城への分岐点。鉄砲地蔵からいったん下り、ここから城跡までは再び上りとなる。
⑦ 七里御浜の大パノラマと「東屋」



東屋は、七里御浜を最も美しく眺められる “伊勢路随一の絶景ポイント” だ。苔むした石畳を抜け、竹林を渡る風が心地よい峠道の途中に現れる小さな東屋からは、熊野速玉大社のある新宮まで約25km続く七里御浜の海岸線を一望できる。江戸時代に刊行された『西国三十三所名所図会』に描かれた「七里の濱」と変わらぬ景観が、今もそこに広がる。ゆるやかな弧を描く海岸線と熊野灘の青が重なり、熊野古道の中でも屈指の眺望を誇る場所だ。


東側の七里御浜に目を奪われがちだが、西側には小さな湾が広がっている。熊野古道伊勢路の険しい最終峠を望むことができる、隠れた絶景ポイントだ。
⑧ 鬼ヶ城本城跡


ここは、海と山が交差する特別な場所。峠道の静けさの中に、かつて「鬼ヶ城本城」と呼ばれた山城の跡がひっそりと残っている。室町時代、1523年頃に有馬忠親が隠居城として築いたとされる鬼ヶ城本城は、標高153mの山頂に位置し、熊野灘を一望できる天然の要害である。松本峠から山頂へと続く道には、今もなお三本の掘切が残り、当時の防御構造を静かに物語っている。有馬氏は熊野別当家の流れを汲む有力氏族だったが、のちに堀内氏との争いの中で滅亡した。この山城が築かれたことで、海岸の奇岩地帯を含む一帯が「鬼ヶ城」と総称されるようになったという。現在、山頂には三角点が静かに佇んでいる。これは国土地理院が管理する「公共測量の基準点」であり、破壊・移動・埋没させる行為は測量法第33条で禁止されている。うっかり触れてしまえば“犯罪”になりかねない。見た目はただの棒でも、その役割は決して軽くない。
⑨ 鬼の見晴らし台



熊野市の名勝「鬼ヶ城」の背後、松本峠にひっそりと佇む「鬼の見晴らし台」。熊野古道伊勢路の石畳や七里御浜の大展望に注目が集まりがちな松本峠の中で、この小さな展望台は別の魅力を秘めている。標高こそ高くないものの、海と山が交差する独特の地形を味わえ、鬼ヶ城の岩壁を上から俯瞰できる貴重なスポットだ。東屋から望む “圧倒的な七里御浜の絶景” とは趣が異なり、素朴で静かな眺望を楽しめるぞ。
⑩ 松本峠も最終章


2時間半の峠旅も、ここを下れば鬼ヶ城に至る。この一帯には桜が植えられているため、春には一面が花で満ちる。その季節には、またひと味違う松本峠の表情を体感できるはずだ。
⑪ 鬼ヶ城入口

峠を下れば、鬼が出迎える「鬼ヶ城」。その先には、今度はいったいどんな絶景が待っているのか。
熊野灘が彫り上げた “天然の彫刻回廊”「鬼ヶ城」

三重県熊野市に位置する鬼ヶ城は、波の侵食・風化・大地震による隆起が重なって生まれた巨大な凝灰岩の岩壁で、国の名勝・天然記念物に指定され、さらに「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産の構成資産にも登録されている。海岸線に沿って約1kmの遊歩道が続き、大小の洞窟や奇岩が連続する景観は、まさに “自然が彫った彫刻美” そのものだ。



鬼ヶ城に入ってまず目に飛び込んでくるのが、「魔見ヶ島(まみるがしま/マブリカ)」だ。熊野灘に浮かぶ小さな無人島で、坂上田村麻呂の鬼退治伝説と深く結びついた “熊野の神話的スポット” として知られている。時代は桓武天皇の頃(8〜9世紀)。熊野の海を荒らしていた鬼(海賊)を討伐しようとした田村麻呂の前に、沖合の魔見ヶ島で童子が現れ、舞い唄って将軍を導いたと伝わる。鬼の大将が油断して岩屋の戸を開けた瞬間、田村麻呂が矢を放ち、見事に討ち取ったという。このとき童子が姿を現した島として、「魔を見るか」から転じて「魔見ヶ島」と呼ばれるようになったとされる。



七里御浜の北端に位置する海岸地形の名勝。熊野灘に面した奇岩の迷宮・鬼ヶ城は、数度の大地震による隆起と、熊野灘の荒波が削り続けた凝灰岩(ぎょうかいがん)の大岩壁が約1kmにわたり連なる世界遺産である。洞窟や断崖、海風が織りなす圧倒的な自然景観が魅力だ。

凝灰岩
火山から噴き出した火山灰が、地上や水中に堆積して固まってできた岩石。手で触るとぽろぽろと崩れるほど柔らかく、波によって削られやすい性質をもつ。そのため、洞窟やアーチ状の地形が形成されやすいことが特徴だ。


遊歩道に足を踏み入れると、まず迎えてくれるのは、巨大な岩壁がつくるアーチだ。海面から吹き上がる湿った風が岩肌の凹凸をなぞるように通り抜け、音色を変えながら反響していく。ここで最初に訪れるのは “閉じ込められる感覚” ではなく、“岩に包まれている感覚”。巡礼者も思わず笠紐を〆なおす。


鬼ヶ城を巡るということは、ただ静止した景色を眺める行為ではない。
波の高さ、風の向き、光の角度が変わるたび、同じ岩がまったく異なる表情を見せる。写真には収まりきれない、身体で浴びる、動き続ける景観だ。熊野灘を見ながら何を考える巡礼者。

歴史を感じる松本峠の石畳、躍動感がとまらない鬼ヶ城と熊野灘の海。平安・江戸時代とかわらないそれが世界遺産。1日目の旅はここまでだ。
熊野の宿「海ひかり」

熊野市にある「熊野の宿 海ひかり」は、熊野灘を一望する高台に建つ温泉旅館だ。絶景・食・温泉の三拍子がそろい、“熊野らしさ” を存分に味わえる。特に自家源泉の熊野温泉と、地元食材をふんだんに使った料理は、旅人の疲れをやさしく癒してくれる宿だ。

熊野灘を正面に抱く「海ひかり」は、ただ “海が見える宿” ではなく、海そのものが滞在の中心になる宿だ。部屋からの熊野灘は日常の速度をいったん手放せることができるぞ。
熊野の四季料理「海華」

「海華」で楽しむ熊野。近海熊野灘直送の新鮮な海の幸・肥沃な大地にしっかり根付いた力強い海の幸、地場産にこだわった食材を中心に料理人が腕を揮いますとなっているぞ。彩とりどりな美味しそうな素材にどれから箸をつけるか考えてしまう。魚の鮮度は抜群、熊野2食目!









刺身皿の中心には鮪の花が咲く。取り囲む鰤、鯛もなぜ脇役なのかわからないレベルの旨さ。わさび・醤油ではなくソースで食べるのが海華流。松阪牛のローストビーフは肉の旨味が凝縮され美味しさが格別だ。お気に入りはカツオの生節マリネ・・・これは絶品。

地魚の漬け茶漬けを食らう
会席最後に、鮮度抜群の地魚をふんだんにのせた茶漬け。これは別腹でおかわりがしたくなる絶品の一杯だ。
食後の温泉は格別

海ひかりの温泉
敷地内から湧出する熊野天然温泉
泉質:単純泉
効能:腰痛・神経痛・冷え性・自律神経不安定症・病後回復など
源泉温度は25.2℃、加温して提供。
大浴場からも熊野灘の水平線が広がる絶景風呂だ。

熊野古道を歩き、鬼ヶ城の岩肌に触れ、熊野灘の潮の香りをすい、美味を味わい、温泉でほどけていく・・・ただそれだけの旅なのに、心も身体もすっと整っていく初日。そして2日目は、再び世界遺産と向き合う時間が待っている。後編に続く・・・。


熊野古道の石畳には二種類が存在する。自然石をそのまま敷き詰めたものは江戸時代、整然と加工されたものは明治期の施工とされる。石の加工技術の違いだが、いずれも多雨の紀伊で崩れず残る高度な技術であり、世界遺産にふさわしい文化的価値をもっている。


































