本誌大特集『家の力』発売記念スペシャル企画
『サザエさん』磯野家の一家団らん幸せのヒミツとは?!


©長谷川町子美術館
協力/渡辺恒也(フジテレビ)

これが磯野家の間取りだ!

900号記念の70ページ大特集「家の力」が好評発売中! 特集の目玉が、自分らしい自由な暮らしを「平屋」でとことん満喫している、達人たちの家作りと住まい方レポートだ。

扉を開けば、特集全ページが日常にパワーと閃きを与える家の実例テーマパーク。皆様のお越しをお待ちしております!

900号記念大特集好評発売中!

さて、日本一有名な平屋が、1969年から53年続くアニメ『サザエさん』の磯野家だ。

磯野家の家と暮らしは、昔ながらの平屋が一般的でなくなった現在も、なぜ世代を超えて日本人を惹きつけるのか。

昭和の暮らしに詳しい庶民文化研究家の町田忍さんのインタビューを、誌面では掲載できなかった全文にてご紹介!

平屋はコミュ力高い!

――磯野家の図面を見てどんなことに気づきますか。

まず、これは昭和30年代の半ばに建てられた家だと思います。なぜかというと、ブロック塀は昭和35年ぐらいに普及したんです。それ以前は木の板塀か生垣が普通でした。

――家の中はどうでしょう?

茶の間が家の中心という典型的な日本の暮らしですね。広い家でも狭い家でも、昔は茶の間に家族が集まっていました。

ちゃぶ台で食事をして、子供部屋がない家ならちゃぶ台の上で子供たちが勉強もします。小さな家なら、ちゃぶ台を片付けて布団を敷いて寝る。私の家は六畳一間なのでそういう暮らしでした。

昔はテレビも一家に一台で、茶の間にあるから家族が集まってくる。茶の間を中心に、家族のコミュニケーションが、今よりも豊かにあった時代ですね。

――長い縁側も特徴ですね。

茶の間が家族のコミュニケーションの場なら、縁側は近隣の人たちとのコミュニケーションの場なんですね。

近所の人が縁側に集まって、家に上がらずともお茶を飲んで長話ししたり、家族ぐるみの付き合いで花火をしたり。縁側はご近所とのコミュニケーションの場でもありました。

つまり、家族とも、近所の人とも、人と人とのふれあいの機会が出来やすい、コミュニケーションが豊かになる構造が、昔の日本の家にはあったんです。

――『サザエさん』原作者の長谷川町子氏は東京では世田谷区桜新町に暮らしていました。アニメ版の磯野家の住所は、東京の架空の町「あさひが丘」という設定ですが、一般に桜新町がモデルなのではないかと推測されています。

世田谷区桜新町は、そのころはまだ農家が多かった。どっちかというと世田谷は郊外でした。閑静な住宅地で今でも緑が多いですが、当時は畑も多かった。私の家は目黒でしたが、昭和30年代だと世田谷は目黒よりずっと長閑だったと思います。まだ田舎の匂いがいっぱいでした。

――昭和30年代にこういう家を建てた磯野家は裕福な一家でしょうか。

敷地も建物も広々して、裕福な暮らしといえるでしょう。昭和30年代半ばでは中の上です。仏間があるのも目を引きます。客間と書いてあるけど仏間兼用ですね。これは大きな家にしかありません。

内風呂がある自体が当時は珍しいです。うちの町内では内風呂のある家は、ほんの1,2軒で、たらいで行水か銭湯が普通の家でした。

――なぜ裕福な暮らしが出来たか、推測できることはありますか。

雰囲気としては、昔からこの地にいた一族だと思います。だから広い土地を持ってるんでしょう。この敷地は80~100坪くらいありますよね。普通のサラリーマン所帯だけど、昔から住んでいた土地を活かして、のびのびした一軒家暮らしが出来ていると推測できます。土地があっても元農家ではないでしょうね。農家だと、もっともっと広いですからね。

町田氏が友人と作った昭和の平屋のジオラマ。「生まれ育った目黒で、昭和30年まで暮らした家を再現しています。6畳一間でした。行水中の子供が私です」(町田)。

――日本の昔ながらの平屋には暮らしを快適にする知恵はありますか?

窓が多いんですよ。大きな引き戸で開け放つことができる。それは夏向きの造りです。夏は家をあけっぴろげで暮らす。でも塀で囲まれているから外の視線は心配ないんですよ。夏の夜は窓全開で、蚊帳を吊って蚊取り線香を焚いて寝ていたんです。それが典型的な伝統の日本住宅で、磯野家もそうでしょう。これで井戸があったら夏は最高ですよね。

――完全な個室はないですね。

各部屋が障子や襖で隔てられ、建具を外せば大広間になる造りです。冠婚葬祭など人が大勢で集まれる。そういう多目的に使える利便性も、昭和の家にはありました。

――ほとんど畳敷きの部屋です。

日本住宅の良さですね。台所以外は畳の部屋。これがいい。畳の良さはゴロゴロできること、それと涼しい。 昔の畳は今のマンションなどの畳と違うんです。畳床まで藁でした。今は発泡フォームの畳床が多いですが、昔は芯まで藁で気持ちよかったんです。踏み心地や寝心地がソフトで、ちょっとフカフカしたクッション性があったんです。

「我が家は昭和37年に板塀からブロックにしました。画像は昭和38年の自宅前の私です」(町田)

――台所に出入口がありますね。ここから酒屋の三河屋さんの御用聞きの三郎さんが顔を出します。

御用聞きが使う「勝手口」は、今では懐かしい言葉です。玄関から呼ぶと、奥様方は奥の遠い台所からわざわざ出て来ることになるから、御用聞きは直接に台所へ回っていたんです。磯野家の間取り図には台所近くに裏木戸がありますね。そこから御用聞きが出入りしているんでしょう。

豊かでなくても、居心地がよかった

――磯野家の仲のよさと平屋に関わりはあると思われますか。

サザエさん一家の仲の良い距離感は、平屋だからこそのコミュニケーションでしょうね。完全な個室というのがなくて、みんなが部屋を共用して行き来している。

サザエさんで描かれる家の会話のあたたかさとか、今の社会にはどんどんなくなっている情景なんですね。家に年寄りがいて、一緒に食事したり会話したりっていうのは、もうホームドラマでもめったに見ないですから。僕たちはまだギリギリ体験しているからわかるけど、今の若い人はああいう生活を体験した人はほとんどいないんです。だから年配の人には懐かしいし、若い人には新鮮なんです。

今が昭和のブームと言われるのも、昭和の生活のすべてが新鮮に見えるからですよね。

――実際に今よりいい時代だったでしょうか。

サザエさんの世界のモデルの昭和は、人のぬくもりがすごくあって近所づきあいもあって、生活は決して今ほど豊かでなかったけど、居心地のいい時代だった。

高度経済成長の好景気の中で、働けば豊かになれるという夢が持てて、お父さんは頑張って、そして家の中で大事にされた。給料袋も封筒に現金でしょ。それをドーンと渡すから威厳がある。「お父さんが稼いでくれたんだ」「お父さんは偉いんだ」ってのがわかるんですね。

なおかつ将来は明るかった。これが重要です。今は先が見えないですからね。

――当時を知る一人としてどんなことを思い出しますか?

テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器。昭和30年代前半は、この3つがドッと一気に家庭に入ったんです。で、これもお父さんが買うと決める。さらに電話も掃除機も来た。

そんな大変化が、わずか5年の間にあったんですよ。次は何が来るか? っていう楽しさがあった。どんどん便利になっていったんですよ。

全国の庶民の生活が5年で一気に変わった。そんな時代はほかにないんです。何千年の日本の歴史の中でもないです。これから先もないでしょう。

――その時代を思い出させてくれるのが、磯野家ですね。

そう、暮らしが便利に変化した時代そのままなのがサザエさんの家で、だから幸せいっぱいで明るいんです。物質の豊かさと心の豊かさのバランスが、ちょうどよかった時代です。

町田さんの旧自宅ジオラマの台所部分。「家の中に台所はなくて、父が自分で建てたものでした」(町田)。

町田忍(MACHIDA SHINOBU)
1950年東京生まれ。エッセイスト、写真家、庶民文化研究家として幅広く活躍する。昭和レトロ文化に関する記録と研究の第一人者。ドリンクの缶、牛乳瓶の蓋、カップラーメンの蓋などコレクターとしても有名。著書は『昭和レトロ博物館』『町田忍の銭湯パラダイス』『町田忍の昭和遺産100 令和の時代もたくましく生きる 町田忍認定』など多数。近著に『町田忍の懐かしの昭和家電百科(発行・ウェッジ)』がある。

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