伝説的ラジオ番組と民放ラジオの珠玉エピソードを重鎮ラジオマンが語る

放送開始100年を迎えた日本のラジオ。民放は1951年に設立され、放送初日の4月21日は「民放の日」。この記念日を前に、86歳の今もラジオ制作会社の会長として、ラジオと歩み続ける浮田周男氏に、民放ラジオ黎明期からの貴重な秘話を伺った。

写真/熊谷義久 文/モノ・マガジン編集部
協力/株式会社ジェー・プラネット

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取締役会長
浮田周男(うきた・かねお)氏

1939年東京生まれ。立教大学を卒業後にラジオ関東(現ラジオ日本)に入社。ディレクターとして数多くの番組を手掛ける。エレックレコードの宣伝プロデューサーを経て、1979年にラジオ制作会社ジェー・プラネットを設立。多彩な番組の企画・制作やイベントを手掛ける。「放送人の会ラジオプロジェクト」会員。

民放ラジオの黎明期を支え若者に衝撃を与えた洋楽

 今年2025年は、1925年の日本ラジオ初放送から100年。当初のラジオ局は日本放送協会が各地に開局し、民放ラジオは戦後1951年から相次いで開局した。当時、浮田周男さんも、東京で熱心にラジオに耳を傾ける中学生だった。やがてキング・オブ・ロックンロール、エルヴィス・プレスリーが登場。『ハートブレーク・ホテル』を始め斬新なサウンドに衝撃を受ける。

「もう一瞬で世界が変わりました。プレスリーをきっかけにラテンのペレス・プラード、トリオ・ロス・パンチョス、ヨーロッパのマントヴァーニ・オーケストラなど、いろんなジャンルの音楽に傾倒していくんです」。

 日本の民放ラジオでも洋楽番組が人気を博し、その代表が『S盤アワー』。日本文化放送協会(現・文化放送)が、開局直後の1952年から17年に渡って放送した、洋楽番組の草分けだった。

「オープニングがペレス・プラードの『エル・マンボ』で、エンディングはラルフ・フラナガン楽団の『唄う風』。そんなスタイルも当時は新しかった。その作りは、ラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)で始まる多くの洋楽番組に受け継がれていくんですね」

 ラジオ関東は、1958年に横浜に開局し、港町の洒落たムードと相まって、若者世代の心をつかんだラジオ局だった。

「『ポートジョッキー』という番組は、霧笛の音から始まり、DJはカップルで、男性は英語、女性は日本語で喋る。お洒落な心地よさで、そのムードは、皆さんよくご存知ののTOKYO FM『ジェットストリーム』にも通じる。あのスタイルも、元を辿れば『ポートジョッキー』の影響があるんです」

横浜から若者たちへ洗練された番組を発信

 学生時代は音楽に親しむ一方、立教大学で応援団の活動に打ち込んだ浮田さんは、1962年にラジオ関東に入社する。

「若輩ディレクターの私が担当した番組の中で記憶に残るのは、まず『VAN IVY CLUB』ですね」

 開始は1965年1月。まさにアイヴィー全盛期だった。

浮田氏所蔵『VAN IVY CLUB』の収録風景パネル。一番右が式場壮吉氏、その左が石津祥介氏、一番左がくろすとしゆき氏、その右が三保敬太郎氏。

「音楽はボブ・ディランを流して、ヴァンヂャケットの石津祥介さん、ファッション評論家のくろすとしゆきさん、レーシングドライバーの式場壮吉さんなどが、若者にファッションやTPOを提案する番組です。しかし銀座にみゆき族を増やしてしまったことは、半世紀を経た今も思い出します(笑)。ヴァンのセンスを発信して有望な人材を集めるリクルート番組でもありました」

 他にビートルズブームに沸くブリティッシュ・ビートの専門プログラム『JUN BEAT GOES ON』や、ボサノバを日本に初めて紹介した『夜はボサノバ』など、先進的な音楽番組を浮田さんは担当する。さらに初めてのモダン・フォークソング番組『キョーリン・フォークカプセル』を送り出す。カレッジフォークがブームの中、番組に学生を起用し、『この広い野原いっぱい』が大ヒット直前の森山良子氏、モダンフォークカルテットの麻田浩氏などがレギュラーだった。

浮田氏が所蔵する『キョーリン・フォークカプセル』の宣伝写真パネル。右が森山良子氏。後右から、モダンフォークカルテットの渡辺かおる氏、重見康一氏、麻田浩氏。

「番組が若者に受け入れられたのは、エンディングに『今日の日はさようなら』を使用したことも要因のひとつです。この歌は先日亡くなられた金子詔一さんの作詞作曲で、後に森山良子さんが歌い、教科書に載って、日本の歌100選になりました。特に、フォークの女王といわれるジョーン・バエズが来日時に歌ったのは有名ですが、金子さんによると、歌詞の『自由・友・信じる』と言う、哲学的な内容に共鳴して実現したということでした」

小説家・政治家の野坂昭如氏が、1974年参院選に出馬した際の演説やアピールなど肉声を収録した異色のアルバム『辻説法』。俳優・小沢正一氏の応援演説も。

 浮田さんははエレックレコードの宣伝プロデューサーを経て、1979年にはラジオ制作会社「ジェー・プラネット」を設立。再びラジオ番組の制作に戻り、ベトナム戦争後のハードタイムスの米国を知る企画「荒野よりハードタイムスへようこそ」(TOKYO FM他)を制作した。全てアメリカ取材で、ウエルカム・トゥ・ハードタイムスの作家E・L・ドクトロウ、当時ノーべル賞候補のカート・ヴォネガット、音楽界からウイリー・ネルソン、ジョニー・キャッシュ、映画監督ジョン・ミリアス、俳優のウォーレン・オーツなどにインタビューして、「アメリカ文化の多様性を伝えられたことは、自身がラジオマンで良かったなと思っています」と振り返る。

米国を巡って取材した番組『荒野より』の私家版CD。多様な米国カルチャーを探求した意欲的、実験的な番組。声の出演は米俳優、ウォーレン・オーツ、声優の内海賢二。
カート・ヴェネガット・ジュニアの代表作のひとつ『猫のゆりかご』。奇想天外で風刺とユーモアに満ちた作風は、村上春樹氏にも影響を与えた。

 85歳の現在もラジオに携わる浮田さんに、最後にラジオへの思いを聞いた。

「ネット文化やradikoなど新技術の登場で今の世に適応する一方で、様々な時代を発信したレガシー(遺産)という価値もラジオにはあると思うんですね。私たちの仲間で、村上春樹さんの『村上RADIO』のプロデューサーでもあった延江浩さんが、4月に惜しまれて亡くなられました。技術的に生成AIも使う時代の若いラジオマンは、必ず延江浩さんのレガシーを継承して頂けると確信しています」

浮田氏が手掛けた『人生はピエロ カメカメ合唱団』。ニッポン放送パーソナリティで後に社長の亀渕昭信氏、泉谷しげる氏などが参加したアルバム。イラストは赤塚不二夫氏。

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