松田聖子のつくり方


 では本題に戻ろう。

 松田聖子誕生のきっかけは、コンテストに応募してきた彼女のカセットテープに若松さんが注目したことだった。それ以降、本人へのコンタクト、猛反対する父親の説得、上京してからのレッスンや事務所探しなど、すべて行ったのが若松さんだった。

 その頃のCBS・ソニーの邦楽ポップスは制作第2部で、率いるは酒井政利プロデューサー。酒井氏と言えば山口百恵、南沙織、郷ひろみらをヒットさせた人物だが、若松さんはその酒井氏から一本立ちすべく社長に直訴。念願かなって新設された制作第6部の必達目標はもちろん、ヒットを出すこと。そんな若松さんにとって蒲池法子はダイアモンドだった。「すごい声を見つけてしまった」と感じた。

若松さんはこのカセットテープに吹き込まれた蒲池法子の歌声にショックを受けた。©新潮社

 1980年4月1日、デビュー曲「裸足の季節」発売。洗顔料「エクボ」のテレビCM曲として耳目を集めたがまだスマッシュヒット(とはいえオリコン最高12位。セールスは30万枚というのだから上出来だ)。続く7月1日発売の二枚目「青い珊瑚礁」が大ブレイクを果たしたことで松田聖子の存在と声は、80年代を代表するものとなる。「ザ・ベストテン」放送中に「お父さん、お母さん!」と声かけたシーンをご記憶の方もいるかも知れない。

ファーストアルバム「SQUALL」。1980年8月1日発売。全作曲:小田裕一郎。全作詞:三浦徳子。「裸足の季節」「青い珊瑚礁」収録。「青い珊瑚礁」はこの後長い付き合いとなるアレンジャー大村雅朗氏との初タッグ作。若松氏は山口百恵「謝肉祭」での大村氏の斬新なアレンジに衝撃を受け、仕事を依頼したいという。

以降の大躍進はモノマガ世代の“基礎知識”とも言うべきものだが、引退する山口百恵にかわり立ち現れた80年代CBS・ソニーの大看板。この“聖子プロジェクト”をかくも巧みに操縦出来た秘訣はなにか。

「合議制にしないこと。なぜなら私が周囲に聖子のカセットを聞かせてもピンと来る人はいなかったからです。我々プロデューサーに必要なのは人の本質を見抜く力です。聖子に関しては私がそれを見抜いた。だから合議制にする必要がなかったのです。ただ本音を言えば、この頃の私は自分がリーダーの制作第6部でヒットを出せず悶々としていました。だから“これほどまでにほれ込んだ蒲池法子がヒットしないなら、潔くプロデューサーを辞めよう”と開き直り、とことんまで自分がいいと思う方法で、全責任を背負ってプロデュースしようと腹を括っていたのです」。

若松宗雄&松田聖子のリラックスしたツーショット。「いつだろうなあ~、けっこう初期のスナップだと思いますね」。聖子さんのキュートさもさることながら、若松さんの自由な雰囲気はザ・ギョーカイ人のそれ。(若松氏提供)
5thアルバム「Pineapple」。1982年5月21日発売。「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」を含む充実の5作目。来生たかお、原田真二、財津和夫、松任谷由実ら相当たる面々が参加。この年10月にソニーから世界初のCDプレーヤーCDP-101が発売され、同時にCD化されたアルバムの一枚がこの「Pineapple」だった。

「私は歌謡曲には娯楽性が重要だと思っています。それは聴く人の予想をいい意味で裏切り、ワク(日常)を飛び出す力です。デビューして場数を踏めば歌手は当然上手になります。しかし上手くなるということは、ワクの内側に収まることです。松田聖子プロジェクトは“歌謡曲の実験場”と称されることがあるようですが、私は才能ある作家陣を次々起用することで、松田聖子を常に歌謡曲のワクからはみ出させようとしていたのかも知れません」。

 インタビューの終わりに、取材道具を片付けながら若松さんに尋ねた。

「若松さんでなければ松田聖子は存在しなかった?」

氏、曰く。「僭越ですが、私にしかできなかったでしょうね」。

「松田聖子の誕生」新潮新書/若松宗雄著/760円+税/一本のカセットテープから将来の松田聖子を見出した若手プロデューサーの情熱の記録。当事者しか語れない松田聖子作品の解説書としても希少。 新潮社/03-3266-5111
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  • モノ・マガジン&モノ・マガジンWEB編集長。 1970年生まれ。日本おもちゃ大賞審査員。バイク遍歴とかオーディオ遍歴とか書いてくと大変なことになるので割愛。昭和の団地好き。好きなバンドはイエローマジックオーケストラとグラスバレー。好きな映画は『1999年の夏休み』。WEB同様、モノ・マガジン編集部が日々更新しているFacebook記事も、シェア、いいね!をお願いします。@monomagazine1982 でみつけてね!