Re:STYLING MONO #47 世界に通用する日本製フルートの礎を築いた 『村松フルート』

#47 ムラマツフルート


いうまでもなくフルートは西洋で生まれた楽器だ。厳密には古代から、その原型となるような縦笛は洋の東西を問わず存在していたし、バロック音楽などで用いられたフルートとは、木製の縦笛を指すものであった。いつの時代からどこが発祥で縦笛が横笛になったのかは定かではないが、現代の、いわゆる金属製のフルートが誕生したのは19世紀半ばのことだった。ドイツ人のテオバルト・ベームによって、音響工学理論に基づいた設計がなされたベーム式フルートは、次第に世界に広まった。そんな19世紀という時代が終わろうとしていた1898年、遠く離れた日本で一人の男児が生を受けた。彼は成長して1923年よりフルートの製造を開始。工業的予備知識もなければ、経験も訓練もない、画家を志していた若者だったが、その情熱と探究心で徐々に知られる存在となり、やがて世界中の音楽家たちが彼の作るフルートに憧れを抱くようになる。男の名前は村松孝一。すべてのフルート奏者を魅了する名品、『ムラマツフルート』の始祖である。

一日の生産本数21~22本、年間で約5000本。大きく分けて7つの工程にそれぞれ十数人の職人が従事し、最終工程では一人あたり約4本の調品を一日かけて行う。精密で計算されつくしたフルートの構造。1/100ミリの違いが音質に大きな影響を与えるだけに、工房内では一部の機械や道具を使った作業音以外は聞こえてこない。そんな環境でないと、これほど繊細かつ流麗な美しさを持つ楽器は生まれてこない。ハイエンドの24金製フルートは、表現者にとって至高の存在。ピュアゴールドの製品がこれほど格調高く作り上げられているのは他の美術品や工業製品を見回しても、ちょっと見当たらないのではないか。ハンドメイドのひとつの到達点に位置する逸品といえるだろう。奏者の息が吹き込まれると音楽の神が微笑む、そんな奇跡のような演奏体験を、このフルートならきっと叶えてくれそうだ。

ムラマツフルートの最大の魅力はロープライスのものからハイエンドまですべて同じ工程で同じ作り方をし同じクオリティを保って作られているという点。価格の違いは、材質の違いのみ。世界が絶大な信頼を置く大きな理由だ。

HAND MADE 24+14K.GOLD/頭部管・本管(主管)が24金製、メカニズムは14金製。

村松フルート製作所の誕生


村松孝一は芸術的才能を持ち合わせながらも、根っからの職人気質で数々の逸話を残している。“雷オヤジ”と恐れられ、修理を待つ人を震え上がらせたことも度々あったという。

 ムラマツフルートの創業者、村松孝一が生まれたのは1898年(明治31年)。幼い頃から画才があり、絵の勉強を続けていたが、19歳になったとき激動の20世紀前半という歴史は村松青年から絵筆を奪い、代わりに銃を持たせようとした。しかしこの運命を嫌った村松青年は軍楽隊志望を思い付く。音楽が絵のプラスになるだろうという思いもあったという。しかし、楽器演奏では満たされずに、やがて楽器製作の道を志すようになる。最初に始めたのは学校内の楽器の研究。片端から破損楽器の修理を手がけた。1923年(大正12年)に除隊し、フルート製作の道へ入る。「村松フルート製作所」の創業である。

 ただ、当時の状況から考えるとこの決断はかなり無謀なものだった。その頃の日本国内のフルート奏者はプロ・アマあわせて20人ほど。村松の手記によれば「国内で3年に1本のフルートが売れるか、5年目に1人のフルート吹きが出るか、想像もつかない時代だった」という。もちろん、世間もフルートの音など知る人は皆無に近かった。低音Cが満足に出るフルートもない時代だった。起業して5ヶ月目には関東大震災で被災。逆風が吹き荒れる船出だったのだ。

 村松孝一のフルートが世界に冠たる存在になったことは、彼自身のフルートにかける探究心を抜きには語れない。震災後の復興が始まった東京の町で村松は工場街を歩き回り、窓の外からいろんな作業を毎日見学していたという。機械製作の素人がいい笛を作るためには、のぞき見だろうが何だろうが研究するしかなかった。そして、ようやく6ヶ月(延べ1000時間)を費やして1本の笛を作り上げた。これが日本製フルートの第一号である。村松は最初から工作上の技巧的な面よりも、音程と音質に重きを置いた製作を心がけていた。経験を積めばヤスリがけは上手くなる。しかし、音の良し悪しは楽器製造の魂とも言える部分で、そこを決して疎かにしなかったのだ。製品を持ち込んだ楽器会社で酷評を受けながらも、研究熱心な気質で楽器製造の腕を磨いていった。当時は生活のために楽師として映画館で働きながら、トーキー以前の伴奏音楽をその笛で演奏したりしていたという。1931年、日本交響楽協会サックス奏者の津田功からフルートの製作を依頼され、2本目のベーム式フルートを製作。翌年には、それまでの真鍮や洋白ではない銀製の頭部管を作成した。銀の調達はスプーンなどの銀食器を集めて溶かしたものを使用した。

 軍靴の響きが高まるのと同時に、国内では楽器の需要が増大。戦意高揚のために音楽は不可欠な存在だったからだ。村松の所にも、フルートの製作に窮していたニッカン(日本管楽器製造株式会社)から依頼が舞い込み、技術協力を開始。1940年頃は全工員合わせて約10名で、1ヶ月に70~80本を作製していた。戦後は「プリマ・ムラマツ」ブランドの販売が軌道に乗り、工場規模を拡大。直接楽器店に下ろす「ムラマツ」ブランドも同時進行で作っており、ムラマツフルートは着実に業績を伸ばしていく。1956年にはフルート製作が1万本を達成。当時ウィーン・フィルの首席フルーティストだったハンス・レズニチェックを招いた記念パーティは、マスコミにも大きく取り上げられた。しかし、いよいよこれからという1960年、ピッコロの製作中にクモ膜下出血で死去。享年62歳だった。

 同社はその後、二代目村松治(故人)、三代目村松明夫(現社長)と同族経営で着実に名声を高めていった。西洋音楽の分野で歴史の浅い日本製フルートなど、音楽の本場である西洋人の目からすれば価値の定まらぬ楽器であったが、創業者の遺志を守り通して着実に優秀な楽器を作り続け、今日ではムラマツフルートは世界中の演奏家から求められる存在になっている。最後に村松孝一の手記にあった印象的な言葉を記しておこう。
「この手記を書いているときもどこかで、何人か何十人かの友“笛につながりを持つ友”が、私の笛を吹いていてくれる。笛を持つ人は、笛を持たない人より、どれほど幸福なことか。少なくとも、笛の中に息を吹き込んでいる時間だけは、その人は幸福だと考える」。(村松孝一没後50年メモリアル:村松フルート製作所刊より)

部品の溶接から取り付けまでほぼ終了し、最後の調整を待つフルート。工場内の静謐な空気の中に佇む様子は、思わず息を呑むほど美しい。
細部に至るまで完璧な完成度と美しさを誇るムラマツのフルート。100分の1㎜単位の調整も、職人の目と指先の感覚で行なわれている。

ムラマツ・クオリティに世界が憧れる


 ムラマツフルートの工場にはピンと張り詰めたような空気が流れていた。工程によっては機械化され、音質や仕上がりに関わる大切な部分はすべてハンドメイド。静かな作業音が時折聞こえてくる、最後の調整を行う部屋では、突然、フルートの美しい音色が響き渡る。音の主は職人の方々。同社に従事する多くの人が、達者なフルート演奏を行うという。ひとつひとつ、入念にテストが繰り返され、完璧に調整されたモノだけが、製品として世に出回る。日本の職人が持つ良心とプライドも、楽器が奏でる音の構成要素といえるだろう。

ドゥローン(Drawn引き上げ)トーンホールの製造は、職人の勘と経験が頼りに。
引き上げたホールの先端を、わずかに折り曲げる、繊細なカーリングという工程。
100以上の細かな部品は、精密に銀ロウ付けされたり、ハンダ付けされたりする。
特別オーダーされた世界的奏者のフルートのために彫金を施すベテランの手もと。
100分の1㎜の誤差を測定するために120分カセットテープや光などが使われることも。
リッププレートやカップなど、使用者の要求に応じてイングレーブ(彫刻)が施される。

HAND MADE 24+14K.GOLD MODEL
絶妙のバランスで構成された美しきハイエンドモデル。頭部管・木管は24金製、メカニズムは14金製。世界中のプロフェッショナルが憧れる逸品。

HAND MADE PTP MODEL
総銀製のヘッド・ジョイントとボディ全体に、最高級プラチナをコーティングした高級モデル。プラチナの特性を備えた魅力的な鳴りが美しい。

HAND MADE DS MODEL
総銀製の逸品。創業者村松孝一は、いつか総銀の笛を作りたい、というのが目標だったそうだ。トーンホールはドゥローン引き上げのモデル。

HAND MADE EX MODEL
洋銀製の普及モデル。ムラマツ伝統の普及品からハイエンドまで、すべて同じ工程を経て作られる。初めてのハンドメイドに最適。


初出:ワールドフォトプレス発行『モノ・マガジン』 2013年4-2号


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  • 1982年より㈱ワールドフォトプレス社の雑誌monoマガジン編集部へ。 1984年より同誌編集長。 2004年より同社編集局長。 2017年より同誌編集ディレクター。 その間、数々の雑誌を創刊。 FM cocolo「Today’s View 大人のトレンド情報」、執筆・講演活動、大学講師、各自治体のアドバイザー、デザインコンペティション審査委員などを現在兼任中。

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