2021年3月17日、遂に航空自衛隊からすべてのF-4ファントムが引退しました。
最期のファントム部隊となったのは、岐阜基地(岐阜県各務原市)に所在する飛行開発実験団です。ここでは、新しい航空機、システム、武器などの研究開発を支援し、各種実験等を行っています。
運命の17日午前―。「F4運用終了に伴うラストフライト及び記念式典」と題して、残された3機のファントムが岐阜基地上空で、飛行展示を行いました。周辺には多くのファンが集まり、もう二度と見られなくなる日の丸ファントムの編隊飛行を見届け、別れを告げました。
F-4ファントムとは、アメリカが開発した戦闘機です。後にマクドネル・ダグラスとなるマクドネル・エアクラフト社が、1950年代より研究を重ね、1958年5月27日に初飛行しました。
去年から今年にかけ、SNSでは、ファントムの引退を惜しむ声が大きくなりました。その中心となったのが、40代後半から60代前半にかけた、いわゆる“オジサン”世代でした。今年46歳の私もその渦中にいました。
なぜ、オジサンはファントムに魅せられているのか…。その理由は幼少期にありました。
まず、私を含め、多くのオジサンたちに影響を与えたのが、新谷かおる先生の『ファントム無頼』(小学館)と言っても過言ではないでしょう。1978年から1984年にかけ「週刊少年サンデー増刊号」で連載されていました。私も小学生の頃、単行本を購入し、穴が開くほど読みふけったものです。
さらに、80年代のハリウッドでは、空前のベトナム戦争ブームが起きました。アメリカ人にとって、あの戦争を総括するタイミングだったのでしょう。良くも悪しくも、あの戦争でファントムは活躍しました。しかし、爆弾で野山を焼き尽くす映像は、あまりにも衝撃的であり、当初、日本では“危険だ”との理由で、ファントムの配備に反対する声が多く聞かれました。
ステルス機全盛の今を生きる若い子たちからすれば、ファントムの機体デザインは古臭く見えていることでしょうが、当時は、あの流線形がカッコよく映りました。機能美という言葉を使う古参マニアも多くいます。
まさに「亡霊(ファントム)」に魅了されたオジサン世代が、基地周辺に終結したのです。そして、若い世代は、「あの古めかしいデザインしか勝たん!!」と一緒に盛り上がってくれたようです。
空自がファントムの配備を決めると、まずアメリカにて2機が製造され、1971年1月14日に初飛行に成功しました。初号機となったのが機番「301」号機です。同年7月25日、米国人パイロットの手で太平洋を横断し、最初に、小牧基地(愛知県小牧市)へと運び込まれました。三菱重工による検査等を経て、後の飛行開発実験団となる実験航空隊に引き渡されました。
1972年8月1日、百里基地(茨城県小美玉市)にて、「臨時F-4EJ飛行隊」が新編されると、「301」号機は、パイロット教育用の教材として使われることになります。この臨時部隊は、その後、初のファントム部隊である第301飛行隊へと改編されます。教材としての役目を終えた「301」号機は、岐阜基地へと戻ることになります。
今回岐阜基地で引退した3機の内の1機は、なんとこの「301」号機だったのです。その後、日本でライセンス生産された機体を含め、トータル約150機を配備する事になるのですが、米国生まれの1号機が、最後まで残るなんて、なんてドラマチックなんでしょう。
ファントムの配備数増加に伴い、どんどん運用部隊が増えていきました。そして2000年代に入ると、減勢していきました。こうして、最後のファントム実戦部隊として、2020年末に改編されたのが第301飛行隊だったのです。日本初のファントム部隊が最後まで残ることになったのです。
もう一つ、日本のファントムを語る上で欠かせない存在が機番「440」号機です。これが、日本ファントム最終生産機となりました。ただ、それだけではなく、全世界で5,129機生産されたファントムの最終号機でもあったのです。数字を平仮名にあてて、「ししまる」と呼ばれ、愛されました。
この「ししまる」は、2020年12月1日、浜松基地へと最後のフライトを行い、同基地に隣接する浜松広報館・エアパークに展示されることになりました。ちなみに「ししまる」より1機前に当たる機番「439」号機は、「よさく」と呼ばれ、こちらは、美保基地へと運ばれました。時期は未定ですが、同基地にて展示されることが決まっています。
日本国民の平和と安全、生命と財産を守るために、半世紀に渡り飛び続けた“亡霊”は、国民に愛されて最後の時を迎えました。
お疲れさまでした―。