Decipher the watch #24

1990年に発刊した『ウオッチ・アド 広告に見るアメリカ時計産業の興亡の軌跡』という本がある。この本のカバーの前そで(カバーの端を表紙の裏側に折り込んでいる部分)には以下の文章が。
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アメリカ市場で繰り広げられた時計戦争
腕時計が市民権を得たのは第1次世界大戦後である。
あまりに身近であるために、その歴史がわずかに75年余にすぎないというのは意外かもしれない。
腕時計が作られ始めた頃、世界の時計製造の中心がスイスとともにアメリカであったということもまた、今日では驚きに値する。
現在、アメリカで時計が作られることはない。
19世紀半ばからアメリカ的な機械式大量生産で隆盛を極めたアメリカ時計産業は第2次世界大戦中、軍需優先のために一大転換を余儀なくされ、戦後、衰退の途をたどることになる。
その一方で、スイス時計は機に乗じてアメリカ市場にじわじわと浸透する。
この間、アメリカ市場で展開された広告からは、合併、吸収、倒産という新陳代謝の繰り返し、成長したアメリカ時計メーカー間の熾烈な競争、戦後の焦りと苦悩、そしてスイス時計との目にみえない戦争、といった側面を読みとることができる。
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上記の文で『ウオッチ・アド』がどのような本なのか、大まかにはおわかりいただけると思う。【腕時計を読む!】では、これからこの本の内容を順に転載する。今回は少し長文となるが、プロローグとして「はじめに」の部分をご一読ただきたい。
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はじめに
腕時計がアンティークとして扱われるようになってまだ日は浅い。イタリアのヴォーグ誌がアンティーク・リストウオッチの火付け役であったといわれるが、その火はヨーロッパからアメリカ、日本へとまたたく間に広がり、今では世界中にアンティーク・ウオッチの市場が確立している。1980年代のはじめにはアンティーク・ウオッチといえばポケット・ウオッチであり、アンティーク・オークションで知られるサザビーズでも時計といえばクロックでありポケット・ウオッチであった。100年にも満たない歴史しか持たない腕時計がアンティークとしての価値をもつなど誰も想像だにしなかった。それが最近ではウオッチといえば腕時計であり、常に世界のオークション市場でホットな話題を提供している。
現在、アンティークとして精度やデザインの美しさについてのみ評価されることが多い時計だが、それが生まれた背景があり、また売るための企業戦略があったことはいうまでもない。 特に19世紀後半から今世紀初頭にかけて、アメリカ市場では時計メーカーが百花繚乱と入り乱れ、互いに鎬を削り、販売合戦を繰り広げていた。現在では消滅に等しいアメリカ時計産業だが、かつては世界市場を制覇するほどの勢いをもち、時計産業が南北戦争後のアメリカを農業主体から近代工業国家へと発展させた主要産業のひとつであった。
しかし、勢いあふれる時代にあってもアメリカ時計産業内部は決して安泰ではなかった。共存共栄という図式は成り立たず、常に業界内は喰うか喰われるかの競争がが繰り広げられ、アントレプレナー(起業家)が時計に手をつけては未熟なままで倒産し、他に吸収されている。また、 今世紀に入ると寡占状態に入り、大手メーカーは太平にあぐらをかき、経営体制も老化していった。やがて時計製造の研究開発に力を注ぐスイス時計の隆盛に影響され、次第に市場を侵略され、第2次世界大戦後には戦争中の軍需品優先体制が災いし、スイス時計に完全にお株を奪われてしまう。
ひとつの時計はその時代の技術や美学の集約であり、歴史が時計に反映されるとともに、時計はまた歴史を解く手がかりともなる。さらに時計の広告は最も身近な贅沢品として、その時代に生きる庶民の購買欲をいかにそそるか、という意図のもとに展開されたものである。当然、 そこには社会状況や生活が見え隠れしている。国家機関への売り込みを図り、国家軍事力への寄与をうたって企業宣伝を行なう庶民には無縁の兵器広告と異なり、身近でありながらも贅沢な消費物資のひとつである時計の広告は当時の庶民の夢をも語っている。
時計と人間の暮らし
時を計る道具の開発は人類の文明とともに始まった。紀元前2500年頃に作られたといわれるイギリスのストーンヘンジは影によって季節の変化を知るためのものであったし、エジプト古王朝期のオベリスクも日時計のひとつだと考えられている。やがて太陽がでていなくては時が計れない日時計を補うものとして「水時計」や「砂時計」が古代エジプトや中国、バビロニアで考案され、紀元807年にはアッパース朝のカリフからカール大帝に非常に精巧な大きな水時計が贈られたという記録がある。
機械時計は13世紀になって登場した。これは修道院で正確な祈禱の時間を知るために必要であったために考えられたともいわれる。水や砂の落下という不安定なものではなく、錘とその動きを制御する機械によって正確な時刻を計りたい、というのは機械技術に目ざめた人間の当然の成り行きといえるだろう。時計師こそ先端技術の担い手であった。1292年にはイギリスのカンタベリー大聖堂に時計が設けられ、また、14世紀半ばにはイタリアのパドヴァにジョヴァンニ・デ・ドンディが7つの天体の動きと時刻を表示する複雑な天文時計を製作した。こうして13世紀に始まり、15世紀を頂点に、ヨーロッパ各地で機械時計をとりつけた時計塔が建設された。時計塔は町の広場に作られ、時間は神の支配するものから市民が共有するものとなったのだった。
機械時計が普及することによって市民の生活は時計塔の時刻が基準になった。共通の時間ができたことによって、それまで日の出とともに起きて、日が落ちると家路を急ぐという生活から、何時から何時まで働くという時間管理社会へと移行した。18世紀にベンジャミン・フランクリンは「タイム・イズ・マネー」という言葉を残したが、すでに中世から時間で労働を売る体制に入っていたのだ。アメリカの文明批評家ルイス・マンフォードは、「近代工業時代の鍵となる機械は蒸気機関ではなく、時計である」と述べているが、機械時計こそ近代への起動力に他ならない。
ウオッチの出現と時計産業
機械時計の出現によって時間は市民のものとなったが、16世紀に入り小型の携帯用時計が作られ、時間は個人が所有し持ち歩くもの、つまり人間の一部となった。1500年、ドイツのニュールンベルグでピーター・ヘンラインが初めてウオッチを作ったといわれ、また同じ頃、イタリアなどでも小型携帯時計がが作られている。人間の好奇心と向上心は限りなく、次第に時計は小型化され、ポケット・ウオッチへと至る。
初期のウォッチは時計精度に関していえば全く信頼できないものであったが、17世紀半ばにイギリスでバランススプリングが発明され、少しずつ精度を得た。18世紀の時計製造技術先端国といえばイギリスだ。特に、七つの海を荒らし回っていた大英帝国は船舶位置を確定するために航海用高精度時計、すなわちクロノメーターの開発の必要に迫られていた。1759年、ジョン・ハリソンがクロノメーターを開発し、イギリス政府の賞金20000ポンドを獲得している。
この頃、スイスやフランスでも時計作りは行なわれていたが、貴族が相手で、特に精度は問題ではなく、装飾性のほうが重視された。18世紀半ば頃からスイスではジュネーブを中心に、 七宝や彫金細工などの宝飾技術と、16世紀から17世紀に宗教戦争を逃れ住みついたフランスの時計職人の技術が一体となって、ウオッチ製造が始まっていた。ウオッチの需要の高まりとともにジュネーブの北、フランスとの国境あたりのジュラ渓谷には時計産業が根付いていったのだった。カビノチェと呼ばれる最高技術を誇る時計師たちとともに、農作業のできない雪に閉ざされる冬の間に農民が親方から部品をもらい、家で組み立てを行なっていた。スイス人は手先が器用で、視力もいいといわれ、スイスの風土と人々の特性が時計産業を発展させたともいえる。当初は精度よりもファッション性を強調した貴族好みの時計を作っていたが、貴族の没落とブルジョワジーの台頭という時代を背景に、スイスは時計製造機械の開発に力を注ぎ、19世紀半ばには機械を使って精巧な時計を作り出し、パテック・フィリップなどの高級メーカーはすでに世界に名を知られるようになっていた。
19世紀のイギリスでは手作りの高精度時計が中心で、機械式の生産方式にはあまり関心がなかったようだ。一方スイスでは機械を使い、大量に低価格の時計を作るまでになり、イギリスを驚かせている。こうしてイギリスの時計産業はスイスや後発のアメリカに押され、次第に衰退の一途をたどる運命にあった。
アメリカ時計産業の誕生
アメリカの時計製造は18世紀半ばにごくわずかなイギリスやオランダ、フランスからの移民が個人レベルで作っていたにすぎない。最も確かな記録として残るのは、イギリスからアメリカへ移住したルーサー・ゴダードである。とはいえ彼はイギリスから道具や部品をいれてヨーロッパの時計職人と同様の方法で組み立てを行ない、基本的にはヨーロッパでの時計製造とかわりはなかった。このときのゴダードの弟子たちはやがてアメリカ初の時計メーカー、ウォルサム創設に力を貸すことになる。
アメリカ時計産業というとき、ヨーロッパのそれとは大きな違いがある。オートメーション機械を使って互換性のある部品を作り、それを組み立てる工場制機械工業の大量生産の形態をさす。スイスでも機械は使われていたが、その規模はアメリカの比ではない。この形態が確立したのが19世紀半ばであり、時計産業はアメリカ人が「Yankee Ingenuity」〈ヤンキーの創意〉を示し、近代工業を築くきっかけともなった産業のひとつである。19世紀初期にはクロックや兵器の分野でアメリカ式の生産方式が確立し、その延長線上にウオッチが登場した。1849年、ウォルサムの創始者であるアーロン・デニソンがマサチューセッツ州ウォルサムに時計工場を創設した時がアメリカ時計産業の幕開けである。
この当時、アメリカの主要産業は農業であり、農民はいわば物々交換で生活をしていた。賃金が支払われる産業分野でも1日わずかに1ドル、1日10時間労働、週に6日というのが平均であった。1900年には日給1.50ドル、週50時間労働になったが、これでは庶民に40から250ドルという時計は到底、手がでない。しかし、ここで「ヤンキーの創意」が大いに発揮されたのだった。庶民には高嶺の花であった時計を機械式大量生産によって庶民にも手が届くもの、文字通りの1ドルで買えるダラーウオッチを生み出した。部品の数を少なくし、ケースと一体にしたダラーウオッチは、現代でいえばスイスの廉価時計スウォッチだ。精度は日差3分というのがざらではあったが、ダラーウオッチこそアメリカ時計市場の主力商品だった。こうして高級時計からダラーウオッチまで、アメリカ式の大量生産方式によって市場はくまなくカバーされた。
ところで、アメリカの時計産業は4つの時代に分けられる。
1850-1860年 開発期
1860-1880年 発展期
1880-1910年 競争期
1910年以来 衰退期
アメリカの2大メーカーであるウォルサムとエルジンの生産量を見てみると、1880年にはウオルサムが150万個、エルジンが70万個、1900年にはウォルサム900万個、エルジン900万個、1930年にはエルジン3300万個、ウォルサム2700万個である。またダラーウオッチの主要メーカーであるインガソルでは、1900年に600万個、1930年に7400万個を生産し、ダラーウオッチに代表される廉価時計の人気がうかがえる。
鉄道と戦争が時計をかえた
アメリカの時計精度は鉄道網の発展とともに高められたといえる。1865年、南北戦争がが終わるとアメリカは東から西へと鉄道網が敷かれる。ゴールドラッシュで男たちがカリフォルニアをめざしたように鉄道は西に向かって張りめぐらされた。アメリカに4つの標準時間帯が設けられたのも、また鉄道精度といわれる鉄道員用の高精度の時計が作られたのも、鉄道の発達があったからこそである。
この時代から20世紀初頭まで、アメリカ時計産業は最盛期を迎える。鉄道員のための高精度時計が開発されると同時に、汽車に乗るには時計が欠かせず、一般庶民のためにダラーウオッチをはじめとする廉価時計が大量に市場に送り出された。また、時計メーカーを創設するアントレプレナーが次々と現われ、夢は大きくとも資本力や経営能力が乏しく、どこも短命に終わっている。1年に1社が設立され、1社が姿を消したといわれる。
アメリカで本格的に腕時計が作られ始めたのは1920年以降であり、すでに産業そのものは衰退期に入っていた。19世紀末、アメリカ時計産業の主流メーカーが繁栄に気をよくし、将来に対し何ら不安を抱いていなかった頃、スイス時計は着実に技術開発を進めていた。そのひとつが腕時計である。すでに1880年にはスイスの時計メーカー、ジラール・ペルゴーはドイツ海軍司令部から軍用腕時計の注文を受けて1500個を納品している。また、女性のブレスレットに時計をつけるという試みは古くから行なわれ、1806年にはナポレオンの妃ジョセフィーヌが義理の娘のために時計つきのブレスレットを宝石細工師に注文したという記録もある。しかし衝撃に弱く精度にも問題があったため19世紀の間は腕時計は広まることはなかった。ただ、19世紀末のボーア戦争ではイギリス軍の将校が機能性からポケット・ウオッチにストラップをつけて戦いの時間を計り、腕時計の簡便性を確認したという。
20世紀に入ると徐々に一方では兵士の道具として、一方では女性のアクセサリーとして腕時計はヨーロッパで広まっていった。いつの時代もファッションの流行に敏感なのは女性であり、腕時計も女性のブレスレットとしてパリやロンドンを中心に流行したが、アメリカではスイスから輸入されたものの腕時計は受け入れられず、時計メーカーも腕時計がが流行するなど予想もしなかった。アメリカでもエルジンやグルエンが1907年頃から腕時計製造を試みてはいたが、 市場に広まるのは第1次世界大戦後である。近代戦の幕開けでもあった第1次世界大戦だが、兵士たちの集団行動が要求される近代戦では互いに共通の時間が必要であり、いちいちポケットからウオッチを出すというのは面倒だ。そこでこの戦争を機に、兵士には腕時計が支給されるようになった。とはいえ肝心の精度には問題があり、時計メーカーにとっては精度向上が課題として残ったが、鉄道とともに戦いが時計発展の鍵を握っていたというわけだ。
第1次世界大戦が終わると、腕時計の実用性が認識され、腕時計市場はアメリカにも登場する。ウォルサムのように男性に売るために兵士の腕時計を強調したメーカーもある。しかし、1920年代には開拓時代のようなワイルドな男社会のイメージも次第に消えていったのも確かだ。また、女性は活動的になり、社会はユニセックス化し、自動車や飛行機の発達がスピードの時代をもたらした。悠長にポケット・ウオッチをベストのポケットから出す時代は終わった。 腕時計はその機能性ゆえに男性用であれ女性用であれアメリカ社会に腰を据えていった。
これは時計メーカーにとっては経営危機をも意味した。一部の大手メーカーは第1次世界大戦期に軍用腕時計生産を行ない、そのための機械購入を政府からの援助金でまかなったが、小メーカーは機械を導入する資金もなく、経営体制も古く、新しい腕時計時代に対応できなかった。多くの時計メーカーが倒産の憂き目を予想せざるを得ない状態にあったその矢先の1929年 10月、ウォール街の大暴落で産業界は震憾した。1930年代の大恐慌の痛手は大きかった。そのなかで生き残ったメーカーが大量の腕時計を製造しながら、業界内の熾烈な競争に打ち勝つために多額の宣伝費を費やし、広告を展開した。すでに時計製造はポケット・ウオッチから腕時計へと、比重はかわっていた。
第2次世界大戦から戦後へ
第2次世界大戦中はすべてが軍需品に優先された時代だった。1940年6月には国防諮問委員会が設立され、民間企業の軍需生産への転換を指導する戦時生産局の長官にはシアーズ・ローバック社長ドナルド・ネルソンが任命され、真珠湾攻撃以前にアメリカでは産業界が臨戦体制に入っていた。その後、1941年6月にはアメリカの日本に対する原油輸出禁止措置が決定され、日本との開戦は十分に予測されていたのだった。1941年12月の真珠湾攻撃によって政府も産業界もこの時を待っていたかのように「デモクラシーを守るために戦う」ことをアメリカ国民の愛国心に訴え、戦いのなかへと入っていた。
時計産業も例外ではなかった。あるメーカーは軍用時計製造契約を結び、あるメーカーは時計ではなく兵器部品製造を行ない、軍需産業の一端を担った。ハミルトンのマリン・クロノメーターのように世界の海軍を驚かせるに十分な精密時計の大量生産が可能になったのも戦争という状況があったからに他ならない。しかし、軍需品生産のために一般用時計製造は行なわれず、時計メーカーは軍需景気で潤いながらも一抹の不安を隠しきれず、その焦りが広告にも表現された。一方、その間にアメリカ市場に入り込んだのがスイス時計だった。
戦争が終わると、技術的にも着実に発展を遂げ、市場戦略も巧みであったスイス時計にアメリカ時計は大きく歩をあけられていた。戦争中、軍需品の生産に躍起となっていたアメリカの時計メーカーでは、時計製造機械もすでに古くなり、スイスからムーブメントを買わなくてはならない状態にあった。生産がままならないなかで作られた時計のデザインはレトロ・モダンといわれる派手なものが多く、その誇張したデザインは戦争が終わり平和な市民生活を取り戻した明るさを強調するとともに、新たな時代に向けて時計メーカーが自らを勇気づけるようなものであった。内心にはかなりの葛藤があったのは否めない。
豊かなアメリカの時代の時計産業
1950年代のアメリカ時計を代表するのがハミルトン・エレクトリックであり、また60年代を象徴するのがブローバ・アキュトロンだ。エレクトリックは世界初の電気時計として登場し、 それまでの機械式時計の原理を覆す時計革命であった。戦後を生き残ったメーカーは戦争中の軍需品生産から得た技術を新たな時計作りに生かす方法を模索した。その第一号がハミルトン・ エレクトリックであった。1950年代初めから開発が始められ、1957年に発売されたエレクトリックは、その新技術にふさわしくデザインも非対称を基本とする先端的なものであった。
ハミルトン・エレクトリックの運命も長くは続かなかった。ブローバが電子音叉時計アキュトロンを世に送り出し、ハミルトンの座を奪ってしまったのだ。このムーブメントは後にはスイスへも輸出され、アメリカ時計の面目を保ったのだが、これもまたクオーツの出現で姿を消さざるを得なくなる。それでも1976年までムーブメントの生産は続けられた。
1970年5月6日、ハミルトンは初めてのクオーツ・デジタル・ウオッチ 「パルサー」を発表した。これが最後のアメリカ時計である。現在のような液晶ではなく発光ダイオードを使い、ボタンを押すと数字が光るというものだったが、それが日本でもスイスでもなくアメリカで作られたということが、アメリカ時計産業を形成した「ヤンキーの創意」の最後の一花であった。 しかし、ハミルトンはアメリカでのムーブメントの生産には終止符を打っていた。そして1974年、スイス企業の買収契約に調印した。この頃、他メーカーも次々と姿を消していった。
ひとつの産業が興り、それが消滅する、およそ100年のあいだのドラマを一言でいうにはあまりに劇的にすぎる。しかも有限の資源を扱うわけでもなく、まったく日常生活に不要となってしまったものを作っていたわけではない。時計という今日でも不可欠な道具がその製品である。その産業が消えた陰には内因と外因が複雑に交錯していた。民間レベルで興った部品の互換性と大量生産を特徴とするアメリカ時計産業は業界内競争、合併・吸収・倒産という自由競争と寡占状態、繁栄のうえの甘え構造、他国の影響、そして国家の力に左右され、その存続が脅かされる。このなかで展開された広告はそのすべてを覆い隠し、ひたすら消費者にむけて手をかえ品をかえ売り込みを図っていたのだった。
本書では、アメリカ時計のなかで一貫して高級時計を作りつづけてきたハミルトンの広告を通して、アメリカ時計産業の興亡をみるとともに、1905年から1962年にかけてアメリカの雑誌に掲載された主要アメリカ時計メーカー、スイス時計メーカーの広告をとりあげてみた。これらの広告から時計産業とアメリカ社会の変遷の一端を見てみたい。
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それでは次回から、個々の時計メーカーの広告をひとつずつ読み解いていく。まずは、「はじめに」の後半で登場する「ハミルトン」の広告からスタートする。

















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